3.11東日本大震災に備えて、その3年前の2008年に自衛隊・警察・消防・県等に呼びかけ、みちのくアラートを主催した岩手県遠野市前市長・本田敏秋氏、旭日中綬章に叙せられる

3.11東日本大震災に備えて、その3年前の2008年に自衛隊・警察・消防・県等に呼びかけ、みちのくアラートを主催した岩手県遠野市前市長・本田敏秋氏、旭日中綬章に叙せられる

2011年3月11日、マグニチュード9の超巨大地震が発生し、岩手・宮城・福島の三県を中心に2万人を超える犠牲者・行方不明者を出しました。改めて昨日のように思い出します。岩手県の海岸線は160km余り、13市町村が被災しました。

その時、救助・救援の後方基地となったのが北上山脈の内陸に位置していた人口3万人の遠野市でした。遠野市の全職員・全市民を挙げて、その救助・救援の戦いが始まりました。遠野市は内陸の要で、宮古・山田・大槌・釜石・大船渡・陸前高田等の市町村が各々50kmエリアにあり、ちょうど車軸の要の位置にありました。

当時の本田敏秋市長は、いち早く災害対策本部を組織して沿岸各市町村の支援にあたりました。しかし、遠野市も古い市庁舎が被災、倒壊して電気も途絶してテレビも映らない状況で、沿岸各市町村の津波被害を正確に把握できない状況でした。壊滅的な状況を知ったのは、夜中に沿岸から峠を越えて救援を求めて来た大槌住民の血のでるような叫びでした。「大槌高校に500人が避難している。水も食糧も全くない。なんとか手を貸して欲しい」。愕然とした本田敏秋市長のとった行動は敏速でした。市内の全商店の商品を市が全品買い入れ、管理下におき、町民と津波に遭った沿岸被災民のために使うという決断でした。

最初に到着したのが自衛隊第9師団でした。さらに警察・消防、岩手県をはじめ各機関が続々と遠野に集結して、救助・救援のため50~60km離れた沿岸各市町村に各々出撃して行きました。県立高校や小・中学校の校庭や公園などが各機関の宿営地になりました。

そこから1~2日で自衛隊をはじめ各防災機関が遠野市に基地・拠点を設け、津波で被災した沿岸各市町村に援助・救援に向かうことが出来たのは、3年前の大規模な総合防災訓練があったからです。

3年前の2008年、本田敏秋市長には「明治の大地震のようなプレート型地震で沿岸各地が津波に襲われたら、内陸の遠野市が救助・救援の基地となるだろう。そのための準備をしなければならない」という強い信念がありました。そして『みちのくアラート』という提案書を作り各機関に働きかけたのですが、最初は誰も半信半疑だったとのこと。

熱心な働きかけに最初に賛同してくれたのが、宗像久男・陸上自衛隊東北方面総監(当時)でした。そして、岩手・宮城両県と東北6県の陸上自衛隊全部隊と警察・消防・消防団・地元市町村・電力・NTT等が結集し、18000人規模で大災害対策演習の『2008年みちのくアラート』が実施されました。そして、その演習があったからこそ2011年3月11日の東北大地震に素早く対応できたといいます。

圧倒的な機動力を発揮したのは、陸上自衛隊でした。現地にも宿営出来るという自己完結型の組織の特徴を活かして、航空自衛隊・海上自衛隊・海上保安庁との連携も実りました。その中にあって、遠野市は民生部門の要の役割も果たし続けました。静岡県は、いち早く現地救援事務所を遠野に設置しましたし、各市町村も支援の輪を拡げました。さらに、全国からサポートボランティアが遠野を経由して各地に派遣されました。死者・行方不明者が2万人超えの大災害の中で、一人でも多くの生存者をとの思いで支援が出来たのです。

『2008年みちのくアラート』を主唱した本田敏秋市長は今は引退され、去る11月3日の秋の叙勲で旭日中綬章を受章されました。歴史に残る名市長です。旧知の本田敏秋・前市長に心からお祝い申し上げます。