菅直人元総理は虚飾の人だ。市民運動家と称して売り出して来て40年、いつ、どこで、どんな市民運動をやったのですか

菅直人元総理は虚飾の人だ。市民運動家と称して売り出して来て40年、いつ、どこで、どんな市民運動をやったのですか

菅直人氏が衆議院議員選挙に立候補するのは、これが最後と本人が訴えているので、あえて申し上げる。

1974年日本婦人有権者同盟の市川房枝さんを参議院議員選挙で応援したことを売り物にして「私は市民運動から生まれた政治家です」と主張したが、これって今流にいうと”選挙ボランティア”か”選挙アルバイト”でしょう。百歩譲っても選挙運動で、市民運動ではないですよね。菅さんが住んでいた武蔵野市には次の3つの大市民運動がありました。

  1. ゴミ減量と市内に焼却場を作る運動:ゴミ焼却場を市内に作らなければならなくなり、ゴミの大減量と候補地選定のための深刻な大市民運動。その結果、市役所の前にクリーンセンターを作った。
  2. 日照権を守れという運動:マンションが次々と出来て、日照が奪われることに対する大市民運動。この運動を受けて、当時の後藤喜八郎市長は全国初の「宅地開発等指導要綱」をつくり、この要綱が適法か違法かが争われ、最高裁まで上告された日照権問題。建築基準法が改正され、日影基準が都条例で制定された。
  3. ピンクサロン反対の環境浄化運動:吉祥寺北口の旧近鉄デパート裏にピンクサロンがあっという間に40軒も出来、風俗公害だと住民が立ち上がり、直接請求で条例制定を求めた大市民運動。この運動を受けて昭和58(1983)年9月市長に就任して半年の私は、市独自で武蔵野市環境基本条例と旅館レンタルルーム規制条例の二本を市議会に提出、可決された。この条例の適用で、当時の近鉄ウラ、ピンクサロン対策に取り組んだ。同時に昭和60(1985)年に風俗営業取締法の改正があり、ピンクサロンも風営法の対象になり、徐々に沈静化したのである。

何れも、昭和47(1972)年頃から十数年に渡った大市民運動でした。私は市職員(1966~1975)、市議会議員(1975~1983)、市長(1983~2005)として真っただ中にいました。

菅直人さん、貴方の居住地である武蔵野市で展開されたこれらの三大市民運動には、全く姿を見せませんでしたね。貴方はどこで市民運動をやっていたのですか。
私は菅直人さんが公人として活動したことに対して、私も公人として評価し選挙民の選択に供します。