教育は人なり、実方亀寿初代校長を偲んでスピーチ。武蔵野三中創立70周年 河合校長の下、生徒・教職員一体となった素晴らしい式典

教育は人なり、実方亀寿初代校長を偲んでスピーチ。武蔵野三中創立70周年 河合校長の下、生徒・教職員一体となった素晴らしい式典

11月27日(土)に母校の武蔵野市立第三中学校創立70周年記念式典と祝賀会が開かれ、第5回卒業の同窓生として出席、祝賀会で初代校長の実方亀寿先生と初代市長の荒井源吉さんの逸話を披露し、お祝いの言葉としました。

●三中は武蔵野市の人口急増を受けて、吉祥寺東部地区に昭和26年4月に開校しました。吉祥寺東町・南町・北町1・2丁目等を通学区域とする三中地区には学者、文化人など日本を代表する方々が住んでいました。                              カント哲学者で獨協大学創立者の天野貞祐文部大臣、著名な評論家の亀井勝一郎さん、のちに総理大臣になった三木武夫衆議院議員等々です。
●市民意識が高く、文化度も群を抜いているこの地区に新制中学校を開校することは、初代荒井源吉市長にとっては相当頭を悩ますことでした。そこで東京都の教育関係者に相談して実力のある校長をと依頼し、実方亀寿先生が推薦されました。                 実方亀寿先生は北海道網走中学の出身で当時の東京高等師範学校を首席で卒業、東京文理科大学特待生、戦後は八王子郊外に隠棲していました。実方亀寿先生は学校教育者とりわけ校長は学校の近距離に住んで全責任を担うべきだとの信念でした。今と違い、八王子は遠かった。
●そこで荒井市長は実方亀寿先生のために校長住宅を建てることを決断し、50万円の補正予算を市議会に提出しました。
市議会では学校施設も不十分なのに、校長住宅に50万円かけるとはいかがなものかという意見が出されました。
荒井市長は答弁した。「教育は人なり、50万円で良い教育が実現出来れば、こんな安いことはない」と。
●実方亀寿先生は後に、荒井市長の答弁を聞いて、この市長の下で新しく出来る三中の校長として生涯をかけて日本一の学校にしてみせると決意をしたとのこと。
そして50万円の市の予算は教育施設に使って下さいと返上し、吉祥寺北町1丁目の13坪の2K の都営住宅にご家族と共に住まわれた。
●実方校長先生は朝礼で全校生徒(当時は1000名を超えていた)を前に30分以上も教育や人生の生き方について語られた。時には生徒が倒れたりしたが、よくしたもので保護者も何も言わない時代だった。私は話の内容は覚えていないが、実方校長先生の熱誠がほとばしる姿は昨日のように思い出します。この話は私が昭和50年に市議会議員になった時、当時は引退されておられましたがご壮健だった荒井源吉元市長から直接聞いた話です。荒井市長は懐かしげに「あのなあ、君の恩師の実方という男はなあ…」と熱弁を振るわれた。
●河合校長先生。式典で生徒たちの集中した真剣な姿を見て、三中教育のレベルの高さを実感します。教育は人なりの精神で頑張って下さい。

とスピーチした。 なお、当日配布された70周年記念誌は43ページだが簡にして要を得た素晴らしい編集だった。

  1. 教育長・市長・議長・関係者の挨拶はオーソドックスな編集だが、最初に教育目標、校歌、校旗、校章の由来、校歌合唱の由来が記載されている。
  2. 開校以来70年。10~15年単位で主たる学校の歩みと当時の活動の写真が記載されているので良くわかる。
  3. 初代実方亀寿校長先生以下の歴代の校長の写真がある。校長は学校における教学と経営の責任者だから誠に適切です
  4. さらに驚いたことは、開校以来の全教職員の氏名が記載されていることです。懐かしい先生の名前が見出せる。全卒業生にとって各々青春の学びを想起させる。
  5. そして後半は、現在学んでいる生徒の全写真と活動内容でした

記念式典や祝賀会の意義は「過ごし方を振り返り、行く末を思う」ことですが、この記念誌を見ると河合校長先生以下教職員の目配りの効いた結集した力が伝わってきます。式典に参加した生徒たちの熱心な集中した姿、祝賀会での生徒による吹奏楽の演奏。短時間ではありましたが充実した三中教育を実感しました。

三中の祝賀会は体育館で卒業生を中心に行われ、約80人参加。間隔をとった椅子に座り、生徒の吹奏楽やスピーチを聞いた。
卓球台の上に小さなウーロン茶のペットボトルが数十本並べられ、小さな袋に入ったビスケットの皿、超簡素なノンアルコール祝賀会。総費用5000円か。なるほど新趣向だ。私は記念にビスケットを一個、ワイシャツのポケットに入れて帰った。コロナ禍の下での祝賀会拍手。