中央線三鷹~立川間を複々線化するには、どのような仕組みを作るべきなのかー立川市で講演。高架化事業実現の経緯を踏まえて

中央線三鷹~立川間を複々線化するには、どのような仕組みを作るべきなのかー立川市で講演。高架化事業実現の経緯を踏まえて

昨日2/1、中央線三鷹・立川間立体化複々線化促進協議会および都市モノレール等建設促進協議会の合同役員会で講演した。

立川市が主催し、両会の役員市10市の部課長が参加した。第一部は古川公毅元東京都建設局長が過去の歴史を振り返り、時系列で30年間に渡る様々な出来事を語った。第2部で私は政治がどのように関わったかという視点でスピーチした。

① 昭和44(1969)年、旧国鉄時代に三鷹駅まで複々線化が完成したが、その後20年近く進まなかった。政治的判断を間違えたことが原因。
② 当時の市長会は中央線連続立体交差(高架化)事業に伴う地元市の負担金をゼロにしろと主張した。その理由は新宿区以西の中野区・杉並区は負担していない。三多摩に負担を求めるのは“三多摩格差”だと主張した。
③ しかし、新宿・中野・杉並の各区は固定資産税や都市計画税の課税権を有していない。旧東京市の権限で東京都が課税している。地元負担の権限も財源も責任もない。三多摩各市は課税権があり、市の主要な財源となっている。
④ そこで昭和58(1983)年秋の沿線市の会合で私は「負担あり」に方針を変更しようと主張し、市長同士が2時間半に渡る大激論となったが、その後市長会は「負担やむなし」に変更した。
⑤ 当時の鈴木俊一知事は昭島市出身ということもあり、理解があり、実現に向かって歩み始めた。
⑥ ところが昭和60(1985)年、国鉄の分割民営化法案が成立し昭和62(1987)年にJR東日本が誕生し、中央線連続高架化事業はゼロに戻った。これまた政治そのものだ。
⑦ 昭和62・63(1987・1988)年はバブルの絶頂期で、東京都は2年で1兆円の余剰金が出て、基金等に積み上げた。
⑧ JR東日本も昭和63(1988)年3月の民営化後の初の決算で700億円の黒字を計上した。
⑨ この、またとない財務環境で、鈴木俊一都知事・水村一郎都議会自民党幹事長等の政治家が動き、東京都とJR東日本とで合同の調査研究を始めることに合意し、平成元年度の都の予算に1億円の調査費が計上された。
⑩ 平成3(1991)年、鈴木都知事が中央線高架・複々線化事業を公約に掲げて圧勝したことをきっかけに、大きく前進することになり、平成6(1994)年に都市計画決定が出来た。
⑪ 平成22(2010)年、三鷹~立川間13kmの連続高架化事業は完成し18の踏切が解消され、以後踏切事故はゼロになり、中央線で分断されていた南北の街づくりが進んだ。

そして最後に、このように40年の歳月と1750億円の大事業は政治判断によって停滞し、そして政治判断によって前進し完成したのであります。今後も、大きな方向を決めるのは政治の力です。“政治の力”を形成するのは、東京都知事を中心に国・市長会・国会議員・都議会議員・各市の市議会等であります。

令和5年度の東京都予算に5000万円の調査費が計上されたことは深層で政治が動き出したことと理解出来ます。各市は自分の市だけでなく、三多摩全体の流れを考え「小異を捨てて大 同に就く」をモットーに、各々頑張りましょうと話を結びました。