広島原爆資料館を昭和42年に初めて訪問、悲惨極まりない展示資料にショックを受けたことを、昨日のように思い出す―74回目の原爆忌が巡ってきて、体験の風化が問題となる時代となった

広島原爆資料館を昭和42年に初めて訪問、悲惨極まりない展示資料にショックを受けたことを、昨日のように思い出す―74回目の原爆忌が巡ってきて、体験の風化が問題となる時代となった

原爆投下後10年の昭和30(1955)年頃「原爆の子」という映画が上映され、学校の映画鑑賞会で見た。それ以来心に残っていたが、昭和42年、社会人になって間もない時期に、九州で友人の結婚式が行われた帰りに、広島に下車して原爆資料館に寄り展示物を見た。悲惨極まりない展示が続き、映画以上の凄いショックを受けた。25歳のことだった。
昭和50年、33歳で武蔵野市議会議員となり、武蔵野市長、衆議院議員と政治家の道をすすんだが、平和を維持するためのリアリティのある継続的な粘り強い現実政治を求めてきた。空想的平和主義や念力主義では、決して平和は維持出来ないことを、歴史を学ぶ中で信念とした。

その後、2回程広島の原爆資料館を訪問したが、その都度展示の表現が穏やかになっているのに気が付いた。資料館の方に聞いてみると、見学者があまりの悲惨さに気持ち悪くなったり「二度と来たくない」「広島はもう来ない」と語る来館者の声にも配慮して、大勢の人に原爆の事を知ってもらうための悩みだとおっしゃる。

どんな辛い経験でも癒されなければならない。それが記憶の風化というものであろう。現在、現実の政治を担う政治家の大半は、戦後生まれとなりつつある。リアリティのある戦争体験の継承と、自衛力をはじめ総合安全保障政策、平和の維持政策が今まで以上に大切になる。広島・長崎で犠牲となった30万人の人々をはじめ、戦争で倒れた300万人近い人々の冥福を祈りつつ、政治の責任の重さに改めて思いを新たにした。