家族の愛と行政の役割―山彦の会の輝かしき歴史40周年

家族の愛と行政の役割―山彦の会の輝かしき歴史40周年

山彦の会の故 大伊会長を始め、障害児の親の皆さんと出会って、武蔵野市長の私が強く感じたのは「自分に授かった子が障害を持つ子だったらどうするか」「行政はどこまで支えることが出来るか」でした。

昭和58年(1983年)私が市長になった時、大伊さんは市長室に来られて、次のように語りました。「自分の子供ですから自分で育てます」「でも行き詰まった時、行政が力を貸してほしいのです」「私たちが逝った後、残された子供たちが生きてゆけるようにして下さい」でした。この言葉が重く響きました。

当時、福祉の先進都市として高齢者福祉の武蔵野市、障害者福祉の町田市と言われていました。市民の力で、日本一の財政力を誇る武蔵野市が、八幡町の障害者センターだけでよいのか自問自答しました。八幡町の障害者センターは、通所の千川やいずみ等の民間の無認可作業所に対する場所提供が主たる仕事でした。そこで、2年後の昭和60年の長期計画のローリングに「障害者総合センターの検討」と記しました。

策定委員の先生からは
・ 市長はどこまでやる覚悟があるのか
・ 都との住み分け任務分担はどうするのか
・ 継続して相当な経費を支出ことになるが財政の見通しは
等、行財政の専門家の立場から、問題点の指摘がありました。同時に福祉の専門家の先生方による検討チームを発足させ、平成5年(1993年)武蔵野市障害者総合センターが完成したのです。3000㎡のこのセンターは、知的障害者、肢体不自由、重度重複、未就学児等を対象とした、一般市レベルではトップの施設となりました。

その後、都立福祉作業所の市への移管を強く求めたのは、当時の障害者総合センターの今は亡き加藤理事長で、私はゴーサインを出しました。この施設の完成を障害者団体の市政に対する要請は、グループホーム等生活の場へと移っていきました。

こうやって振り返ってみると、武蔵野市の障害者施策は山彦の会の皆様の凛として自立の精神に基づいた提言を受け、行政が前進していった歴史であったことが分かります。

山彦の会、輝きしき歴史40周年おめでとうございます。