大東亜戦争の日米の最激戦地、硫黄島で日米合同の慰霊祭-72年前日本と米国の軍人が各々の祖国の未来と家族の安寧をかけて戦った。その献身と誇りと不戦の誓いだ。

大東亜戦争の日米の最激戦地、硫黄島で日米合同の慰霊祭-72年前日本と米国の軍人が各々の祖国の未来と家族の安寧をかけて戦った。その献身と誇りと不戦の誓いだ。

3月25日(土)政府のチャーター便で羽田からご遺族の皆様と共に硫黄島に向かった。日帰りの慰霊団に参加。

外務・防衛・厚生労働の三省から各々、政務官、陸上自衛隊岡部陸幕長、海上自衛隊、航空自衛隊幹部も各々の基地から航空機で参加。

米側からは駐日米臨時大使、米軍海兵隊太平洋指令官ら軍幹部が出席した。

東京都小笠原村硫黄島は、羽田から2時間のフライトで着く火山島だ。自衛隊が駐屯しているが住民はゼロ。絶海の無人島だ。

72年前の昭和20年2月19日、米軍は500の艦船と1000機の航空機をもって攻撃を始めた。硫黄島には、栗林忠道中将率いる日本軍22000人が防衛にあたっていた。

圧倒的戦力を誇る米軍は、艦砲射撃と航空機1000機による徹底した爆撃を加えた後上陸した。

当初、米軍は3日で陥落すると考えていたらしい。武器弾薬が劣り、制空権も制海権もない日本軍は、東西8㎞、南北4㎞の島の地下に縦横に地下壕を張り巡らせて潜み、上陸した米軍に、度々夜襲をかけて勇戦し一か月以上も戦い玉砕した。

日本軍の戦死者20129人、生存者は100人以下と言われている。一方、米軍の死者6821人、負傷者21865人と記されている。

たった一つの小島を落とすのに、甚大な損傷を受けた米軍は日本軍の強さを実感。作戦を変更し「飛石作戦」に変えたと言わている。

日米軍隊同士が民間人を巻き込まず地上戦を戦っただけに、とてつもない悲惨な状況の中でお互いに相手の戦い振りを深く心にとめたのである。

戦後40年経った1985年「歴史的な和解」として日米軍人が中心で、両国から現地で合同慰霊祭を催した。

以後、毎年この時期に日米合同の慰霊祭が行われている。合同慰霊祭は米軍が上陸した南部の砂浜で行われた。

この場所には、慰霊の記念碑が建っている。臨時にテントが各々建てられて、自衛隊の軍楽隊と米軍の軍楽隊が合同で鎮魂の曲を吹奏する。

硫黄島攻防戦に23歳で参戦し、戦後この催しを米側で音頭を取って頂いた元米軍将校スノーデン氏は、2年前に安倍総理が渡米し米国連邦議会上下両院合同会議で演説した時、栗林中将の孫である新藤義孝前総務大臣と共に登院して「日米軍人の勇気と祖国に対する献身と栄光、そして歴史的和解」の象徴として紹介され、米国議員総立ちで拍手の渦が起こったという。

そのスノーデン氏が、今年2月18日(米国時間)にご逝去された。時あたかも、米軍が硫黄島に上陸した日でもある。両国の代表がスノーデン氏の功績を称え追悼した。

日米合同慰霊式は、11時から始まり12時30分過ぎまで続いた。日の丸と星条旗を持った両国の兵士が、直立不動で国旗を掲げているのが印象的だった。

午後4時30分のチャーター機の離陸まで、日本側の単独慰霊式と各地戦跡、とりわけ地下壕を何カ所か見て中に入ったが、火山島なので入り口から30m程進むと気温が上がり蒸し風呂のようだ。

その先にも壕が続くが、平服ではとうてい耐えられない。

当時の日本軍は熱射と水不足の中、よくぞ迷路のような防御壕を作り上げたと只々圧倒される。

硫黄島は全体が火山島で高い山もないため、決定的に水が不足している。駐留している自衛隊も、雨水を生活水として使用しているという。

水不足の小さな島に2万人を超す日本の将兵が長期間にわたって駐留して、祖国防衛のため戦ったのだと思うと胸がふさがれる。

羽田に午後6時30分に到着。テレビが森友学園問題を取り上げていた。

 

<米軍上陸地点に建っている慰霊碑>
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<自衛隊音楽隊の歌姫・追悼式で「故郷」など独唱>

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<日の丸を掲げる自衛隊員と星条旗を掲げる米兵>

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<日本軍戦車>

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