石原慎太郎さんのお別れ会- 壁一面におびただしい著書の表紙。20代から80代まで書き続けた作家。政治は、その延長か。永年ありがとうございました

石原慎太郎さんのお別れ会- 壁一面におびただしい著書の表紙。20代から80代まで書き続けた作家。政治は、その延長か。永年ありがとうございました

本日6月9日、石原慎太郎さんのお別れ会が渋谷のセルリオンタワー東急ホテルであり、出席しました。壁一面に張られた著作物の表紙が圧巻。改めてエネルギーあふれた大作家だったことを実感しました。

発起人代表の安倍晋三元総理がスピーチ、岸田文雄総理が弔辞を読み、細田衆議院議長が衆議院本会議で述べた衆議院としての弔詞を読まれた。

安倍晋三元総理のご挨拶が味があり、温かかったです。
「私が最初に石原先生にお目にかかったのは、父の安倍晋太郎に会いに来られた時でした。芥川賞受賞のご著書『太陽の季節』を読んで感激した私は、読み込んだ本を出してサインをお願いしたところ「君、著者にサインを求める時は新刊本を用意するものだ」と言われました。その後、この写真のようにニコッと笑ったことが強く印象に残り、それ以後、ずっとファンです」と。そののち、都知事から国会に戻った時に憲法改正の代表質問をされ、総理として答弁をしたことを披露され、その功績を称えました。

 私、土屋と石原慎太郎さんとの出会いは30数年前に遡ります。
昭和58(1983)年に41歳で武蔵野市長に就任して間もなく、江戸川競艇で職員による勝舟投票券偽造事件が起こり、八王子・武蔵野・町田等6市で組合をつくり施行していた江戸川競艇が開催中止に追い込まれました。その時、監督官庁である運輸省(当時)にお詫びに上がりました。八王子市長が競艇組合の管理者であり、他の5市の市長は副管理者でした。
八王子市長の「自分は慎太郎をよく知っているから」との言葉で、石原運輸大臣にお目にかかったのです。石原さんは開口一番「未だ改善策も十分示してないのに、開催を再開してくれとは虫のいいこと言うな」とお叱りを受けました。八王子市長ほか我々は、ほうほうのていで席を立ったのですが、その時一番若い私を指さして「市長もよいが、永田町に来いや」と声をかけられました。私は「生涯一市長のつもりです」と答えたのを思い出します。

その後、石原慎太郎さんは「東京から国を変える」と都知事に当選され、私は武蔵野市長さらに衆議院議員として外環道や中央線連続立体交差複々線のこと等お世話になりました。時代を先取りした先見性のある大政治家でした。

今日、お別れの会に臨むと、改めて本業は小説家。その視線で日本のことや政治の行く末を見ていらっしゃったのかと実感いたしました。長い間、ご指導をありがとうございました。謹んでご冥福をお祈りいたします。