武蔵野市子どもの権利条例の学校を休む権利。国連の条約は労働を休む権利で、学校は学ぶ権利の保障です。日本の国民教育の歴史を大切に

武蔵野市子どもの権利条例の学校を休む権利。国連の条約は労働を休む権利で、学校は学ぶ権利の保障です。日本の国民教育の歴史を大切に

武蔵野市子どもの権利に関する条例検討委員会の中間報告(令和4年5月)では「子どもは・・・自分をとりもどすため等の理由から学校を休む権利があります」という記述がありました。その後、学校現場等からの指摘により“条例案”では削除されましたが、今回の条例提出の底流に流れる思想は、ここにあります。

歴史的にみると、子どもは貴重な労働力でした。綿花畑で、コーヒーやパーム油の農園で、羊の放牧や移動で、乾燥地域での長距離の水くみに、時には炭鉱などでも働いていました。

第二次大戦後、国連が主導して1948年の世界人権宣言を皮切りに、いかなる国でも未成年を過重労働から解放し、休息を与えること(休息の権利)や学校で学ぶという権利を保障しようということが人類の普遍的な権利とされたのです。“学校”は未成年に広い世界と未来の選択肢を与える素晴らしい仕組みです。学校という体系的、継続的、集団的学びが未成年に希望と可能性を与えるのです。人類の英知です。ところが世界的にみると未だ、子どもが長時間労働におかれている国々や地域も数多いのです。“学校で学ぶ権利”は、子どもの権利の根幹です。

国連の条約では、第28・29・32条で児童の過重労働の解消(休む権利)と学ぶ権利の保障が明記されています。最近、子どもの不登校が増加傾向にあることは事実ですし、それを補強する意味で30年以上前からフリースクールの試みも始まっています。しかし“学校で学ぶ権利”を否定するような“学校を休む権利”など容認するのは、制度と状況を混同していませんか。

日本の国民教育のスタートは、明5(1872)年の学制の発布です。「必ず邑(むら)に不学の戸なく家に不学の人なからしめん事を期す・・・」の有名な言葉で始まったのです。江戸時代までは藩校か市井の寺子屋しかなかったのですから、国民が誰でも平等に受けられる「学制」こそ、世界に先駆け教育を受ける権利を保障した画期的な制度だったのです。

武蔵野市の学校教育のあゆみは明治6年から始まりました。旧吉祥寺村の研磋(けんさん)学舎:安養寺、旧西窪村・関前村の三省学舎:源生寺、旧境村の栄境学舎:観音院です。研磋学舎は現在の一小、栄境学舎は現在の二小ですが、三省学舎は明治41年に武蔵野村の高等小学校に改編され、廃校になりました。今の五小の前身と見ることが出来ます。明治以降、150年の普通教育の歴史を大切に子どもの未来を展望することが大切です。

松下市長提案の今回の「子どもの権利条例」は国連の児童の権利に関する条約を基礎としていると語っていますが、子どもに関する根本の認識が違っていることを改めて指摘いたします。