「2520億円の新国立競技場、かかり過ぎだと。今さらなんだの議論―東京オリンピック誘致には必要なデザインではなかったのか」

「2520億円の新国立競技場、かかり過ぎだと。今さらなんだの議論―東京オリンピック誘致には必要なデザインではなかったのか」

2520億円が高いと今になっての議論「あの時こうすれば良かった」「決めたのは俺じゃない」は責任のがれの典型的な後出しじゃんけんだ。

「再び東京オリンピック」をと言い出したのは8年前の石原知事で時代を先取りした彗眼だ。

しかし低成長、平和に安住した当時は後向きの時代だったせいか、どの調査でも賛成は50%台で招致に失敗した。

国民が本気となり、なんとか新しい時代の象徴に東京オリンピックをと思い立ったのは2011年の3.11の東日本大震災で東北三県を中心に2万人もの方々が犠牲になったことがきっかけではなかったか。

新国立競技場のデザインが発表になったのは、翌年の2012年秋で民主党政権の末期、安倍政権との中継期だったが、安倍政権も2020年東京オリンピック誘致を日本を立て直す明るい目標に掲げ、国民も支持して賛成は90%を超えたのだ。平凡なデザインだったら盛り上がったのだろうか。 

「責任の所在が明らかにならないまま決まった」などと批判する人もいるが東京オリンピック組織委員会にはもともと独自の権限も人材も財源もあるわけではない。

主催都市の東京と国の全面的なバックアップがあってこそ実現可能だった。

当時の猪瀬知事が口を滑らせてイスラム諸国の悪口を言った時、ライバル都市のイスタンブールを訪れた安倍総理が

「イスタンブールが五つの輪を射止めたら私は真っ先にお祝いに駆けつけます、もし東京に決まったら皆さんもお祝いして下さい」

との最高のリカバリー演説をした。

東京オリンピックが最終的に決まった2013年9月IOC総会で、高円宮妃久子殿下の「日本国民を代表して歓迎いたします(安倍総理は政府代表のスピーチ)」とIOC公式言語の英語・フランス語を交互に使った演説、フランス語になじみの深い国の代表をぐっと掴んだスピーチ。

滝川クリステルさんの「おもてなしの心と日本は落としたお金が返ってくる国」スピーチ。

被災地出身のパラリンピア佐藤選手の「可能性に挑戦」演説、実に計算しつくされたベストスピーカー達の心のこもったスピーチと、それに至る様々な努力の総体がオリンピック招致を決したのではないだろうか。

その一つの要素に二本のキールの新国立競技場設計があったのではないのか。

世界中でオリンピック省を常設していて常に数百人のスタッフを抱えている国はどこにもない。

状況に応じて臨時の組織をつくり早め早めに人を配置するしかない、50年に一度のオリンピックのような超ビックゲーム大会は走りながら考え、考えながら走るしかないのだ。

2520億円は競技場としてケタ違いかも知れないが、白紙に戻して間に合うのか、世界に対する信用はどうなるのだ。今更元には戻れないのでは。

「税金を使って」とか「維持費は赤字だ」などと警世家気取りの評論家がいるが、武蔵野市長の経験から問いたい。

全国の体育館や大型文化会館で赤字じゃないところはあるのか。

ビックエッグのようにプロ野球の本拠地用に作った施設以外は全部赤字だ。使用料でペイ出来る公共施設はない。

赤字が嫌なら作らないことだ、東京オリンピックを招致しないことだ。

文部科学大臣も都知事も無責任な後講釈に惑わされず「予定の倍の費用になったのは見通しが甘かった申し訳ない。今後は費用のことも十分吟味して、東京オリンピック成功に関係者が協力して全力を尽くすからよろしく」とこれからのことを言うべきだ。